悪性リンパ腫の、身もフタもない話

悪性リンパ腫です。→それ、いくら払ったらいいんですか?

2020年10月21日 人は誰でもいつか死ぬ。死生観について1

死の話はタブーか?

 死ぬことなんて考えるな!頑張って生きていこうぜ!

 って私、そんなタイプではなく、それこそ以前書いた「なるようにしかならん」と
 思っているような人間。

 悪性リンパ腫に罹りました、と会社の同僚に告知したとき、私以上に心配し、懸命に
 言葉を紡ぎだして私を慮ってくれた仲間には申し訳ないのだけど、人が期待するほど
 ショックを受けていないんだなぁ、ということを実感させられた。

 社内の人には伝えたけど、取引先の人には言うな、会社からそうお達しがあったので
 現場で知り合った職人さんには何も言えぬまま現場を離れることとなった。

 やはりまだ、世の中のイメージは「ガン=死」なのだろう。

 

 10年前の3月、私の祖父はがんで亡くなった。

 当時、関西に住んでいた私たちには、詳しい病状は知らされなかったが、肺がんで
 最後は息をしても肺に取り込めない状態だったようだ。

 意識のあるころ、直前の冬に帰省してじいちゃんの見舞に行った。

 じいちゃんは息も切れ切れだったけど、緩和治療のモルヒネを投与されていた
 ようで、気持ちいい夢を見たと話していた。

 会話を続ける中、父が急に焦って私を離れた場所に連れ出し、こう諭した。

 「お前、死ぬとか言うな、じいちゃんにはガンって言ってないんやから」

 大層おどろき、あっけに取られるしかなかったんだけど、、

 

 主人公 「先生、教えてください、私、ガンなんでしょ!」

 医師 「…。」(医師、すっと目を伏せる)

 主人公 「先生!」

 

 昔のドラマでこんなシーンを見たことがある。本人には告知しない、死の話が
 タブーだった時代、確かにそんな時代はあった。

 いや、世代や土地柄にも寄るんだろうけど、まだそう考える方が自然(=多数派)
 で、過去形ではない気がする。

 

死を意識することと、死に向き合うこと

 本気で「死」を意識したことが2回ある。

 共にラグビー部に所属していた高校時代、一度目は炎天下の練習で倒れた時のこと。

 

 当時の運動部は「水を飲むな!」「根性が足らん!」という指導方針の末期ごろ。

 「ランパス」という名前の、コートの端から端を全力で駆けながらパスをつなぐ、
 という現代ラグビーでは否定する人も多い精神鍛錬の最中、私は倒れた。

 日陰の部室に運ばれたが、体がぶるぶる震え、熱いのか寒いのかわからず、息を
 いくら吸っても満たされることなく、頭がジーンとし続け、体が攣って硬直する。

 

 『死ぬ、死にたくない、死ぬのが怖い』

 

 ただただ固まり、じっと涙を流すだけ。

 周囲も、誰も、どう対処することもできなく、ただ声をかけ続けてくれた。

 当時、熱中症という言葉も聞かなかった時代、それがそうだったのか、過呼吸だった
 のか、よくわからなかったけど、死は免れた。

 

 二度目は痛めた足首の靱帯を接合する手術をする際、下半身の腰椎麻酔を行った
 時のこと。

 手術台で横向きに伏せる中、腰椎に「ググッ」と針が刺し込まれた。

 その感覚が気持ち悪く、その時すでに虫の息。

 薬剤が注入され、意識はもうろうとし、それほど息を吸い込まなくても苦しくなく、
 吸うのをやめようかな、とさえ思いかけていた。

 そんな中、バイタルサインが異常を告げる、血圧が降下していくと看護師の声。

 周囲は慌てふためく。

 

 『このまま、眠ったら、息吸うのやめたら、死ぬかもしれんなぁ』

 

 どっちでもいいかな、と思った時、主治医の高橋先生が

 

 「ほら、しっかり、大きく息せぇ!」

 

 と大声で支えてくれた。

 

 私は、大きく深呼吸することにした。

 生きたいと思ったから、ではなく、とても人の良かった高橋先生に迷惑をかけちゃ
 悪い、と思ったから。

 

 死を意識したのはその2回だけ。

 でもこれは、受動的に、必然的に死を感じただけで、自ら思考したわけではない。

 自分の意志で能動的に死を考える、それが「死に向き合うこと」ではないかと思う。

 

 能動的に死を考える、ってどういうこと?

 

 私は、自分が(今)死ぬはずがない、と傲慢に考えることではなく、また、迫りくる
 老いを、死を恐れることでもない、その間。生きている自分がいつか死ぬことを
 認識し受け入れること、さらに言えば、死を迎えるまでをどう生きるか、を肯定的に
 考えることなんじゃないかなぁ、と思った。

 

 書いてて、まだまだ向き合えていない自分を認識。

 「いつか死ぬ」ではなく「いつでも死に得る」んだよね。

 そして、死ぬ認識はあったとしても、どう生きるか、は考えられていない。
 漠然とした願望は持っていても、目標と思えるまで強くは持てていない。

 

 例えば、1か月後に死ぬ、と分かっていたなら、生きているうちにやっておきたい
 ことを挙げて、その中から実現可能なものを選び、それを達成してから死にたい。

 懐かしい友人に会って人生のお礼を言ったり、将来の子供のために手紙を書いたり、
 思い出のレストランに行ってあの味を思い出したり。

 

 では、死期が1年後ならどうだろう。10年後ならどうだろう。40年後なら?

 

 先になればなるほど、死期が未知であるほど、生きているうちにやっておきたいこと
 が漠然としてしまい、友人や家族に礼を言うことも忘れてしまう。

 もしかしたら、交通事故に遭って明日死んでしまうかもしれないのにね。

 

 きれいごとを書くような柄じゃないので、模範的なまとめ方はしないけど、
 少なくとも、今するその行動が、ぽっくり逝っても後悔しない行動なのかどうか、
 だけは心しておこうと思う。しかし、ぽっくりは嫌だなぁー。。

 

 まだ書きたいことはあるけど、まとまらない。

 だから、タイトルは「死生観について1」としておく。

 

 「2」は明日かもしれないし、ずっと先かもしれない。

 もしかしたら、書かないかもしれない。

 

 

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