悪性リンパ腫の、身もフタもない話

悪性リンパ腫です。→それ、いくら払ったらいいんですか?

2020年10月23日 人の死にどう向き合ったのか。死生観について2

入院中に想いをまとめておきたかったこと

 これを書いている時点で、あと3回寝たら退院。

 「死生観について1」で書きたくてまとまらなかったこと、入院しているうちに
 頭の中から出してしまいたくて、「2」を書きだした。

 

道半ばの死について

 親族の死はまだ祖父母しか経験したことがない。

 葬儀で帰省して、酒をかっくらって泣きつくしたときもあれば、しんみり涙を
 にじませて偲んだこともあった。

 でも皆、80歳くらいまで頑張ってからのお見送り。順番通り、いずれ私も通る道。

 

 心に引っかかるのは、道半ばの友人・知人の死。

 

大学の恩師の死

 2003年、大学の恩師、M教授が亡くなったと連絡を受けた。卒業して4年後の話。

 急な話で驚いて葬儀に駆け付けた。

 

 私がM教授の研究室に入った時、教授はちょうど今の私の歳(45歳)だった。

 若くして教授になった人で、一風変わった人だった。

 頭に白髪は目立ったが、体は丈夫で、学生に交じってキャンパスを自転車で、
 しかも手放し・立ち漕ぎで走り抜ける変な先生。

 機械オタクで、ゼミの生徒を放置して終日パソコンいじりをするような、何を
 やっているのかよくわからない先生だった。

 

 「会長君の入れるコーヒーは美味しいなぁ」

 

 これ、私が褒められた、唯一の思い出。

 特に勉強しなかったけど、単位をつけて研究室から見送ってくれた。

 感謝しかない。

 結局、最後まで何やっているのかよくわからない先生だったけど、それでも若くして
 教授になったんだから、何か業績を残していたんだろう。

 

 確か、悪性リンパ腫白血病のどちらか、血液系の疾患で、闘病する間もなく、
 あっという間の死だったと聞いた。

 

 神式の葬儀で、眠るような教授に花を手向けた。

 この時は、やり場のない感情に戸惑った。

 

 数か月後、ゼミの後輩から連絡があった。

 「会長さん、新しい事業をしようと思っているんで話を聞いてくれませんか?」

 私も当時の会社を辞め、新しい一歩を踏み出した時だったので喜んで待ち合わせた。

 

 私 「久しぶりやなぁ、M教授、亡くなったの知ってるか?」

 後輩 「はい、でも仕事が忙しくて葬儀には行けませんでした」

 私 「そうか、なんか事業立ち上げるんやって?頑張ってるなぁ」

 後輩 「先輩にも手伝ってもらいたくて、話を聞いてほしいんです」

 

 どんな話かワクワクしながら聞こうとした私は当時28歳、若かった。

 MOJICO という過去のサービス、知ってます?

 専用のFAX 端末を使ってサーバから情報を取り入れ通信販売を展開する、
 未来を先どったシステムで店を開きませんか?と。

 子会員を作ったらキャッシュバックがあって…

 知らんかった私でも仕組みを聞いてすぐわかる、マルチ商法やないか!

 

 最初、「お前正気か?このご時世にFAXって、騙されてるで」と諭そうとしたが
 話通じず、「先輩呼んでいいですか」と。

 後から来た先輩らしき人間もろとも一喝した。

 

 「恩師の葬式にも来れんかった理由がこれか?お前、人としてもう一度考えろ!」

 

 やり場のなかった感情はここで全部吐き出してケリをつけた。

 

研修講師の死

 前職は職場内で様々な仕事(テレアポシステム開発・総務・・・)をしたけど、
 最終的には企業研修の企画業務をしていた。

 なにそれ?

 

 企業が様々な理由で開催する研修、例えば新入社員に対してビジネスマナーで
 あったり幹部候補生にリーダーやマネジメントの研修などを、外部委託業務として
 受注し、それに見合うカリキュラムを組み立て、テキストを作成し、適切な講師に
 インストラクション(教え)させ、効果を検証する、というような仕事。

 企画を組み立てテキストの作成が終わると、研修実施。全国規模の研修の場合は
 研修講師に帯同して全国を飛び回り、講師のフォローをした。

 

 そんな中、R講師は50代の売れっ子女性講師だった。

 年相応なのだけど、独身で背が高くてスタイルがよく、講師として教える際は
 スーツを、プライベートではスリムなジーンズをはきこなす、カッコいい人だった。

 一緒に飛び回ることが多く、宮城で一緒に焼肉を食べたり、品川で一杯、
 宮崎で2泊したときは地鶏と焼酎を心行くまで堪能したのは良い思い出。

 「これで○○研修の全課程を修了します、お疲れさまでした」

 晴れ晴れとした笑顔で研修の終了を宣言するR講師の立ち姿は美しかった。

 私が未婚で、しかも仕事のしがらみがなければなぁ、とか思ったことも・・・。

 

 全国を 飲み歩いた 飛び回った翌年、2015年だったかな。

 急に、R講師にオファーが取れなくなってしまった。R講師とのコンタクトは社長
 預かりのトップシークレットとなり、もやもやする中、1年後、咽頭がんに罹って
 いることを伝え聞いた。

 咽頭がん、、治療すれば声が失われてしまうことに。研修講師として乗りに乗って
 いた彼女が突き付けられた現実、声を取るか命を取るか。私なんかが想像できない
 くらい落ち込み、悩み抜いたと思う。

 

 彼女は、声を捨て、生きることを選んだ。

 そんな彼女に、なんと声をかけて良いのか言葉が出てこず、忙しさにかまけ、
 彼女が向き合った現実に、私は目を背け、連絡できずにやり過ごしてしまった。

 

 いよいよ前職の退職が近くなった2017年の秋ごろ、ようやく重い腰を上げて、
 退職の報告とともに1通のメールを送った。

 

 2・3日後、返信があった。

 元々、パソコンには詳しくない彼女だったので、変換や改行の位置に違和感は
 あったが、病に打ち勝とうとする熱いメールだった。そして、移住&転職で新たな
 ステージに旅立とうとする私へのエールと、自身はステージⅢのがんをこれ以上
 進行させないよう、お互い頑張ろう、と。

 1通のメールを書くのに丸1日費やしてしまうほど体力が落ち込んでいる中、
 まさに、渾身のメッセージをもらった。

 声を失ってもなお、私に多くのことを気づかせてくれた真の講師だったと思う。

 

 訃報を伝え聞いたのはその半年後だった。

 

同僚の死

 昨年6月、前職の大阪・東京の職場で同僚だった、30代半ばのK女史の訃報を受けた。

 寝耳に水だった。

 

 2010年に結婚するまで大阪の本社でよく顔を合わせていた彼女は、結婚すると
 しばらくして、会社の計らいもあり、東京支店(大阪が本社の)に転勤し、
 関東に住む夫と暮らせることとなった。

 その頃の東京支店は完全に赤字部門で、人が入れ替わる中、最終的には30代前半の
 女性3人が関東の拠点をつぶすまいと必死にこらえている状況だった。

 

 その東京支店を立て直すため、2014年1月、大阪本社から私ともう一人の営業部門の
 マネージャーが送り込まれたのだった。ここで彼女と再び同じ職場となった。

 この営業部門のマネージャーがなかなかのやり手で、転勤まえに仕込んだ案件が
 あれよあれよと花開き、前述のR講師ともタッグを組んで、1年で業績は V字回復、
 たんまりボーナスを確保することができた。

 同年、安心したのか、K女史は妊娠、出産、産休。それが終わるともう一人、次は
 また別の一人、と順番にお子様を産んだ。みんな、耐えてたんだね。

 

 順繰り、全員子供を産んだ2016年、K女史が乳がんを患ったことが発覚した。

 治療に専念するため、残念ながら退職したが、退職して以降も子供を連れて何度か
 東京支店に遊びに来てくれた。うちの子にも優しく接してくれた笑顔と笑い声は
 まだ心に残る。

 私が東京を離れる前も変わらぬ笑顔、治療は順調なのかなと安心していたんだけど。

 

 訃報を受けた際、私たちのことを思い、病状を伏せて闘病していたと知った。

 葬儀には参列できなかったけど、想いを込めて、少し長い電報を打った。

 彼女を想って、そして、残された彼女の家族を想って。

 

死は避けて通れない

 早いか遅いか、という違いあるけど、死は避けて通れない。

 私がどうしても、入院中に書いてしまいたかったのは、引っ掛かっていた友人・
 知人の死を思い出して、整理して、自分の中に刻み付けておきたかったから
 なんだろうと思う。

 あの時の後悔や怒りや感謝が今の私の考えを形作っている。

 幼いころ犯した、カエルの日干しやアリの巣壊滅と同列ではないけど、命という
 意味では同じで、あの残酷な行いを通じて、今だから命の大切さに思いを馳せる
 ことができる。

 そういう意味では、手塚治虫氏の「火の鳥」も私の中に大きな影響を与えた。

 現実では経験し得ない、死と転生を自分の身に置き換えて。

 

 長々とごめんなさい。

 でも、もうちょっとだけ書き足りない。

 あと2回寝るまでに、もう一度書くと思う。

 

 

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